1937年9月に野戦酒保の附属慰安施設として陸軍の編成のうちに姿をあらわした軍慰安所は、その4年後の1941年には、給養を担当する経理将校のマニュアル中に、師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合には、必ず設置しなければいけない施設として、酒保と肩をならべて記されるまでの存在となっていたのである。
このような状況となれば、後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。
証言者は、戦後フジサンケイグループの総帥となる鹿内信隆だが、一九三八年に札幌の歩兵第二五聯隊に入営した鹿内は、幹部候補生の試験に合格し、予備の経理将校になるため、陸軍経理学校に入校した。さらに陸軍会計監督官となる教育を受け一九四一年に卒業した。
鹿内は、元日経連会長櫻田武との対談の中で、その経理学校で「慰安所の開設」について次のような教育を受けたという。
鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。
櫻田 そう、慰安所の開設。
鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。
(櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、一九八三年)四〇~四一頁。)
もちろん「ピー屋設置要綱」は隠語であって、正しくは「慰安所設置要綱」であったにちがいない。
鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。
と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。
最後まで読む人も少なそうなので。フジサンケイグループの親分が、慰安所の軍の関与について証言しているというすごいオチがついていた