もしかすると「ヘタであること」に意味があるんじゃないか?
つまり「鏡の法則」という文章は、不特定多数の人を感動させるための物語ではないのです。だとすればいったい何なのか。私はこの物語は同じような境遇にある人をピックアップするための一種のフィルタ__リトマス試験紙なのではないかと考えます。ピックアップされる人は、家族や両親のような身近な人たちとの間に、なんらかのしこりがある人、ということかもしれないし、自分の子供がいじめにあっているということかもしれない。それを見分けるための反応が感動したか否か、ということです。
そのような人たちをフィルタリングするのが目的なのだとすれば、ストーリーテリングの効果によって、まったく関係のない境遇の人が感動してしまうのは単なるノイズでしかありません。であればこそ、フィルタリングの精度を高めるために、ストーリーテリングに関しては意図的に稚拙であるように書かれているのではないか。
つまるところ、「鏡の法則」は稚拙であるべくして稚拙であるわけです。そこでストーリーテリングという要素はフィルタリングという目的を果たすためには邪魔なのであり、邪魔であるが故に必然的に排除されている。その結果、感動できる人はものすごく感動するし、できない人は「なんだコレ?」程度の感想しか抱けないというつくりになっているのではないか。
そう考えてみると、いくつかのサイトで自己啓発本等と比較されているというのも頷ける話です。あの手の話も徹底的に必要な要素を伝えるために簡素化された結果、読んだ人の感想はかなり極端に二分化される傾向があるものです。単なる例文にすぎないのだから、そこに心躍らせるストーリーなんてものは必要ない。従って必要な人にとってはもの凄く役に立つけれども、そうでない人にとっては単なる時間の無駄ということになる。ある意味、受験参考書や就職活動のためのハウツー本と同じような性質だといえるのかもしれません。